事務局 〒 879-1506 | |||
大分県速見郡日出町2548-3 | |||
(有)幸喜屋内 | |||
TEL.0977-72-2421 FAX.0977-72-2436 | |||
会長 | 秋 吉 尚 康 | ||
副会長 | 山 田 滋 彦 | ||
幹事 | 河 野 一 幸 | ||
広報委員長 | 鈴 木 貫 史 |
例会日 | 火曜日 | 19:00 | |
会 場 | 日出町 | 別府湾ロイヤルホテル |
■ 出席報告 | 瀬口秀吉 会員 | ||
会員総数 | 12名 | ゲスト | 0名 |
会員出席数 | 10名 | ビジター | 0名 |
会員出席率 | 83.3% | 出席者数 | 10名 |
前々回出席率 | (1月18日)66.7% | 修正出席率 | (1月18日)66.7% |
100%連続回数 | 0回 | 100%通算回数 | 364回 |
出席免除会員 | 山田滋彦 |
● メイクアップ | |
事前 | |
事後 | |
● 欠 席 | 遠藤克尚、小路郁 |
点鍾 | 19:00 |
ロータリーソング: | 君が代、奉仕の理想、四つのテスト唱和 |
ゲスト | |
ビジター |
皆さん今晩は。本日より2月に成りますが、1月よりいろんなニュースが発生しました。特にお隣の宮崎県では、鳥インフルエンザ被害が広がり、ついには大分県の佐伯まで鳥や卵の移動禁止の対象に成りました。大変困った問題となっています。又宮崎では霧島連山の新燃岳が189年ぶりの大噴火を起し、2月1日の朝には4回目の爆発的噴火を来たし、鹿児島県と宮崎県に緊張が走りました。
大噴火による空振によってホテルや病院等のガラスも割れ、多くの人たちも怪我をしたとのことです。又火山灰の為に農作物や交通機関などにも影響が出ています。こんな時に日本では明るいニュースが有りました。それはアジアカップサッカーで、日本チームが決勝戦でオーストラリアに勝って優勝し、日本中を、そして世界中を沸かせたことです。皆様も深夜遅くまでテレビの中継を見て興奮したのではありませんか。
本日は鈴木会員の卓話が後にありますので、このあたりで会長の時間を終わります。
*
会員卓話 鈴木 貫史 会員
演題 今後の日出クラブ広報活動の一つとして
『日出木下藩の土屋家と滝家の人々』
* 第9回定例理事会〈例会終了後に開催します〉
*
2月8日(火) 1280回例会
会員卓話 佐藤 英隆 会員
* 8日 会員卓話 佐藤 英隆 会員 『タイム イズ マネー』
* 15日 家族親睦ボウリング大会
* 22日 IMの報告
* | 別府中央RC | 2月15日(火) | 左記の例会は、「合同例会」並びに「大分県第3分区IM」の為、2月19日(土)15:00~「合同例会」 16:00~「IM」ホテルサンバリーアネックスに時間・場所変更 | |
* | 別府北RC | 2月16日(水) | ||
* | 別府東RC | 2月17日(木) | ||
* | 別府RC | 2月18日(金) | ||
* | 大分RC | 2月 8日(火) | 例会は夜間例会の為、18:30~「大分全日空ホテルオアシスタワー」に変更 | |
* | 大分中央RC | 2月 9日(水) | 例会は30周年式典準備の打ち合わせ為、12:30~「大分東洋ホテル」に変更 |
鈴木貫史広報委員長
昨年11~12月、日出クラブの奉仕活動の一つとして「名所史跡文化財所在地域を美しくする会」(日出致道館第一期卒塾生 代表 堀章爾)との共催にて、(1)日出町覚正寺周辺森藩玖珠道、並びに豊岡漁港別府湾ロイヤルホテル下周辺 (2)大神漁港回天神社、住吉神社周辺に桜苗木を植樹する活動を行いました。
豊岡地区には、22年11月22日(月)堀章爾代表(日出RC OB会員)、当クラブより秋吉会長、吉弘会員と私が参加。大神地区では、12月5日(日)秋吉会長、上野公則社会奉仕委員長、佐藤(英)会員、瀬口会員と私の5名参加し、桜苗を実際に穴を掘り、植樹致しました。
この度、堀章爾代表より年末12月29日に、その植樹場所の写真とお手紙を頂きましたので報告致します。
寸啓
本年は、日出ロータリークラブの皆様には大変お世話になりました。厚く御礼を申し上げます。
さて、過日の桜の植祭も無事終了できましたので、現地に看板を立てました。3ヶ所となりますが、豊岡の覚生寺様には献納して、現地に立てて頂くこととしましたので、「大神住吉神社周辺」と「豊岡漁港、別府湾ロイヤルホテル海岸」の2ヶ所の写真を同封しました。御査収下さいませ。
新年まであと1日を残すのみとなりましたが、皆様の御健康を祈念しております。
敬具
大神住吉神社周辺 | ||
豊岡漁港、別府湾ロイヤルホテル下海岸 | ||
鈴木貫史広報委員長
前々回の1月18日例会で、吉弘秀二会員による(日出ロータリークラブ編)「大夢翁土屋元作」を読んでと題し卓話を頂きました。私もその後、再度同書を読み返しました。土屋元作翁は、改めて日本ロータリーの先達の一人として、より心を打たれるものが御座いました。それと同時に、幕末より明治維新前後の日本全国が揺れ動いている時、日出木下藩での土屋家(土屋元成-元作の父)、滝家(滝吉弘-滝廉太郎の父)についても、より惹かれる物を感じました。
私は、昨年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」を一年間通して楽しく、そして坂本龍馬を取り巻く日本中の出来事に心がおどるように観せられました。ブームに乗せられたのかもしれませんが、長崎市、京都市を訪れ、龍馬達が歩んだであろう界隈を実際に探索しました。そして、その時代の流れを自分なりに感じることが出来ました。
日出木下藩においても当時、何かしら新しい息吹を藩主や藩士の間にも感じていたと思われます。
土屋元作は、日出木下氏二代藩主俊治侯に召抱えられて家老や目付役をした土屋家の直系 元成の子として慶応2年(1866)6月、日出に生まれております(薩長同盟成立した年であり、坂本龍馬は翌1867年の近江屋にて暗殺された)。明治元年(1868)多くの大名が京都に召されて、天皇陛下の御前で観兵式があり、日出藩よりもわずかであるが、一小隊の兵が送られました。その中に父土屋元成も参加され、藩主の指示にて元成をはじめ4名が直ちに大阪の兵学校に入学されています。明治4年(1871)廃藩置県となり、父・元成は陸軍中尉となり、東京にて勤務していたようです。東京で豊後の7藩士が鳥森湖月樓に会し懇親会を開いておりますが、元成は大変酒にも強く豪快な人物であったとの事です。また、その集りの中には竹田の藩士広瀬重武がいました。後に広瀬重武の子が有名な広瀬武夫(軍神広瀬中佐)であります。青雲の志を持った数多くの人が新しい時代を駆け巡っていったわけであります。
土屋元作 | |
滝廉太郎は、明治12年(1879)8月、父・吉弘の長男として東京で生まれました。滝家は、木下三代目延俊侯に抱えられ、そして重宝され家老を務めた名門でありました。父・吉弘は明治維新直後、東京に出ており、政府の最高実力者 大久保利通の秘書になりました。父・吉弘が私用で日出に帰っていた時、大久保利通は暗殺されます。廉太郎が生まれる前年(明治11年5月)のことでした。大久保利通を失って、父・吉弘は地方へ転勤させられます。廉太郎が3歳の時横浜へ、7歳の時富山へ、そして11歳の時大分へです。そして父が、直入郡長を命じられた為、竹田の小学校へ移りました。
ここでやっと竹田の滝廉太郎と世間では言われるような素地となるのです。15歳になった廉太郎は、東京の滝大吉(廉太郎とは従兄弟あたり、東京で西洋建築家をしていた)のもとに身を寄せ、東京音楽学校に入学。19歳で本科を卒業すると研究科へ進み、ピアノと作曲の研究を行いました。廉太郎21歳の時、ドイツ留学を命じられました。明治34年(1901)の出発まで10ヶ月の間に「荒城の月」「花」などの名曲唱歌を作曲したのです。4月にドイツ・ライプチヒ王立音楽学校に入学。西洋音楽の勉強を始めましたが、すぐに風邪をこじらせ病院に入院。翌明治35年の春になっても病気(肺結核)は治らず、同年10月東京に戻り療養しました。しかし、いとこの滝大吉も11月急死した為、大分の父母のもとに身を寄せました。明治36年(1903)6月、23歳と10ヶ月の短い生涯を大分市で閉じました。大分市万寿寺には、父・吉弘と息子・廉太郎の墓があり、またその隣に石碑「天才音楽家滝廉太郎君」(東京音楽学校の同交会有志による)があり、今でも毎年廉太郎の命日には、音楽関係者の手で墓前祭が営まれているとの事です(大分合同新聞より参照)。
ここで話は、土屋元作と滝家の関係に戻ります。滝家と土屋家との関係は、幕末において父・元成は、滝家の女・八重と結婚し、土屋元作は滝廉太郎、滝大吉とは従兄弟にあたり、また元作の妹・タミは滝大吉に嫁いでおります。今回資料の図表及び当時の写真においても、両家が互いに尊敬しあい、そして助け合い幕末の混乱した時代より明治維新、そして文明開化の時代を先程申しました様に青雲の志を持ち世に羽ばたいた人達でありました。
土屋元作は、明治7年9歳の時、滝家と土屋家の7名で一緒に日出を出て大阪へ、そして東京へ船で渡りました。東京に出てより漢学を学び、そして滝大吉の指示もあり英語を勉強。明治22年(1889)にはバンクーバーにも旅立。また帰国しても様々の人達と知合いになる中で、明治26年(1893)シカゴ大博覧会に大阪出品協会社員として米国に渡る。そして同博覧会において、米山梅吉氏と初顔合わせとなり、それ以後は兄弟のような親交が始まったのであります。
米山梅吉氏は日本に戻ってから、ロータリーの精神を日本に持ち込み大正9年(1920)東京ロータリーを立ち上げました。土屋元作も帰国してから、幾多の会社、特に新聞出版社関係では時事新報、大阪毎日新聞社、大阪朝日新聞社等に入社しながら、世界を旅する精神は続けておりました。大正11年(1922)大阪ロータリークラブの創立にも非常に寄与され、そして大正13年(1924)、元作(大夢翁)自身も大阪ロータリークラブに入会されております。昭和3年(1928)には、太平洋沿岸ロータリークラブ第二回大会(東京)において、『ロータリークラブ以前の大ロータリアン』を英語で講演したのです。それは二宮尊徳先生の教えを、ロータリーの哲学とは同一の精神であると解釈し、啓蒙したものでありました。
以上、長きに渡って日出木下藩の土屋家、滝家が日出の地でどのようにして育まれていったのか、もっと詳細に研究調査し、日出木下侯にも詳しい山田滋彦会員にも御協力を賜り、この日出町の歴史もより深く勉強することで、そしてそれが日出ロータリークラブの発展、拡大の為に繋がるよう広報して参りたいと思うものであります。
参考:大分合同新聞 平成22年11月15日夕刊 おおいたの偉人たち
また、本年23年2月2日の大分合同新聞朝刊に、―大分市にある滝廉太郎の墓をゆかりのある日出町へ―代々日出藩で要職を務めた家柄で親族は「集約して慰めたい」との大見出の記事が載りました。